2006年10月11日

トルコ民族舞踊合宿で考えた

先日の連休三日間、千葉で行われたトルコ民族舞踊の合宿に、演奏者として参加してきました。主催の方は、それこそ私が生まれる前から、バルカン半島やトルコの踊りを追求し続けている第一人者で、他の参加者の方々も何十年のベテランばかり。

そこで踊られるレパートリーは、例えばトルコの中でも、「エルジンジャン県エーインに伝わるアルメニア系の舞曲」「エスキシェヒル県のみに何故か残っているクリミア系の舞曲」など・・・そういう世界があるのです。日本ってすごい。

今回私は、踊りの伴奏をするべく呼んで頂いたわけですが、「今後お互いどう合わせていこうか?」という話をするためでもありました。そもそも私は踊りを知らないし、またローカルなスタイルにこだわり出すと、私のやっているカヴァル、相方の弾くサズだけでは、トルコ各地の舞曲本来の「らしさ」を表現するには、どう考えても無理があります。音楽だけなら、考えようによって何とでもなる所なんですけどね。

早速何曲か合わせてみましたが、なかなか大変かつ面白かったのが、「ゼイベキ」という、エーゲ海沿岸地方の舞曲。独特の溜めが効いたアクセントのある、ゆったりとした変拍子のリズムなのですが、男性が踊る場合と、女性が踊る場合とで、求められるスピードやニュアンスが、がらっと変わるんですよ。音楽としては、ゼイベキは現地でも大変ポピュラーなので、様々なアレンジで私も散々聴いてはいたのですが、こればかりは踊りと一緒にやってみないとわからないことでした。

ここでちょっと歴史に思いを馳せてみます。音楽が演奏者なしに「音」だけで存在することって、思えば不思議だと思いませんか?人類がはじめて録音メディアを手に入れて、たかだか100年ちょっとです。それまで、人にとって音楽とは、演奏する人とそれを楽しむ人が、その場その時を共有してないと「あり得ないもの」だったはずです。

録音メディアが登場したことで、音楽が生身の演奏者から、限られた場所と時間から、いわば「開放」されたとも言えます。例えばBGMという楽しみ方を、当たり前に享受出来るようになりました。受験勉強のBGMに、わざわざ楽士なんか呼べませんしね。また、遠く離れた国の音楽、自分が生まれる前の音楽を、いつでもどこでも聴けるようにもなりました。そうでなければ、私もトルコ音楽やブルガリア音楽なんて、ついぞ知ることもなかったでしょうし。

さて、ゼイベキに話を戻すと、エーゲ海沿岸で生まれたこの舞曲は、今ではトルコ全土で、大衆歌謡的なアレンジから芸術的な独奏まで、実に多様に楽しまれていますが、「踊れるか?」と言えば、おそらく踊れないものが大半でしょう。これも「音楽を音だけで楽しめる」現代ならではです。踊りに縛られずに自由に音楽性だけを高められると捉えるも、ひとつの立場としてアリです。

一方、今回の私のように、音で表現するリズムと実際に体で踊られるリズムと何か合わない経験をすると、「色んなゼイベキをそれなりに聴き倒してきたはずなのに・・・」と、どこか虚しい気持ちになり、失われた何かに思いを馳せてしまうのです。演奏する人と楽しむ人が、常に同じ時間と場所を共有していた、私の知らないあの頃に。

音だけの音楽、文字だけの言葉、映像でしか知らない現場、等々。「全部メディアが悪いんだ!」と、とりあえずパソコンでもぶっ壊すなどという早まった真似は止めて置くとして(You Tubeも見たいし)、情報に溺れることが気持ち良い私のような人間は特に、頭だけでなく体を使って考えなきゃと思わされる合宿でした。次回は、やっぱ踊らなきゃダメかな?
posted by ひで at 01:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽